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「かわいそうな私」が必要な人について

「かわいそうな私」が必要な人について、考えていこうと思います。先日、とある場所で食事をしてですね、今の仕事がいかにつらいかみたいなことを話している人がおりまして、我々はその話を聞きながら、半分慰めるような、共感するような感じだったんですけれども、こういう人は一体なぜ「かわいそうな私」をアピールするのかというところを考えたいと思っていて、

今から述べることは、いわゆるアドラー心理学を解釈した上での考えになっているんですけれども、「かわいそうな自分」をアピールする人というのは、多分、今の現実を肯定したいと、そして変わる勇気というのがきっとないんだというふうに思っております。

何を言っているかというとですね、変わるということは、これまでの自分をなくして、意味のなかったことにすることなんですね。つまり、何かというと、これまである種正しいというふうに思っていた自分の心情とか、哲学とかというものに、死を意味することを許容できるかということだと思っていて、これがなかなかあまり容易ではないということが1個挙げられるというふうに思っています。

あとはですね、結局、「つらい」「かわいそう」アピールをするとですね、周りの人も大人なので、その人のことをある意味かばってくれて、注意を向けてくれるわけですね。そこに束の間の安らぎがあるというか、やっぱりこの本当にわずかな快感というのがきっとあるんだろうなというふうに思っています。

そして何より、人間は変化を嫌う生き物だと強く強く思っています。結局、変わる勇気がないから、今を肯定するために「かわいそうな私」という材料を持ってきて、この話のテーブルの上にあげているんだなというふうに思っています。

繰り返しになりますが、変わることって本当に難しいなというふうに思っています。

これは現状を維持することが極めて楽だからですね。という感じなんですけれども、やはり今後、「かわいそうな私」、過去のこういうエピソードがあった「かわいそうな私」を披露してくる人たちには、この人は変わる勇気がなくて、今のままでいいと思っているんだというような解釈をせざるを得ないなというふうに考えた試練になっています。※強い自戒も込めて。

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